会 津 仏 教 と 徳 一 大 師
 
会津磐梯山と猪苗代湖
 会津の象徴は磐梯山と猪苗代湖といわれています。特に磐梯山は会津の人々の心の支えとして 古来より信仰の対象でしたが「病悩山」と呼ばれ魔物が住みつき、周辺の耕地や作物を荒らしまわっていたといわれていました。
 この磐梯山が大同元年(806年)に大爆発を起こし、猪苗代湖ができたといわれています。この大爆発で耕地は跡形もなくなり、住む家や食物を失った人々が道端に屍を晒していました。この惨状を伝え聞いたのが奈良の都で高層の誉れ高い「徳一」という人でした。「徳一」は人々の苦しみを救いその荒れる山を静め、仏教をひろめ仏の都を造ろうと決心し東路をくだり会津入りしました。
 
徳一大師像
磐梯町慧日寺
 徳一大師は、奈良時代中期の太政大臣藤原仲麻呂の子として生まれたといわれております。興福寺や東大寺で仏教を学びましたが、やがて権力と結びつき腐敗化する奈良時代の仏教を嫌い、筑波山等東国で厳しい修行を修めたのちに会津に移り、大同2年(807年)、磐梯山麓(現在の耶麻郡磐梯町)に大層堂を建て慧日寺(恵日寺)をおこしました。会津にあって徳―大師は、唐から帰った最澄・空海らと仏教について意見を戦わせた高僧です。徳一大師の法相学上の教理は今日でも仏性論として生きているほどです。
 
 その後、会津を4郡に分け僧侶による荘園政治の基礎を築きました。9世紀のはじめごろには、時の主権者平家の庇護のもとに繁栄し、会津はもとより県内、さらには東北地方におけるもっとも活発な宗教活動の中心であり、また日本の仏教界の注目をあびた寺でした。隆盛期には子院三千八百坊・十八万石の寺領を持ち六千人の上回る僧兵を擁する大寺院でした。この形態は中世源頼朝が武家社会を形成する鎌倉時代以前まで続き、会津仏教文化の黄金時代を築きました。

今日、会津が「仏都」と呼ばれ、
優れた仏像群と古い伽藍が会津盆地
のいたるところに点在している
所以がここに解明できるようです。「会津ころり三観音」のなかの「鳥追観音」「立木観音」は、それぞれ大同年間、「徳一大師」により開かれ「中田観音」は文永年間と時代は下りますが、共に仏都会津の古刹です。




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